2013年6月27日木曜日

上毛かるた

繭と生糸は日本一

戦後間もない1947(昭和22)年、浦野匤彦氏らによって、上毛かるたがつくられました。
戦後、群馬県で少年、少女時代を過ごしたひとであれば、だれもが覚えているという上毛かるたです。
群馬県に関する歴史上の人物をはじめ、各地の名所、有名な産物等をまとめたもので、読み札の語呂がよいこともあって、とても覚えやすいものになっています。

「に」は、「日本で最初の富岡製糸」です。
いまの教科書の内容については、どのようになっているのか知りませんが、かつては社会科の教科書に「官営富岡製糸場」は、必ず掲載されていたものでした。

高校の入試問題等で、明治時代の殖産興業政策の象徴として、富岡製糸場の出題頻度が高かったと記憶しています。
この問題であれば、上毛かるたのおかげで、群馬県の子どもは、全員が正答であったことでしょう。

私は、教育実習に行った都内の高校で、生徒に自己紹介をするとき、教科書の頁を言ってから「そこに載っている官営富岡製糸場がある富岡市の出身です」と話しました。

「ま」は、「繭と生糸は日本一」です。

群馬県は、養蚕が盛んな土地であり、「ずっと昔から日本一ではなかったの?」と思っている方がいるかもしれませんが、意外なことに、繭の収穫量(府県別の全体量)において、日本一になるのは、1954(昭和29)年からです。

それまでは、長野県が日本一でした。

戦後、GHQは、日本に対する食糧援助の見返りとして、生糸に着目しました。
繭から生糸、製品化までが国内でできる唯一の〝工業製品〟であり、アメリカにおける需要もあったからでした。

わが国では、養蚕、生糸の増産が奨励され、急速に生産量が増加していきます。

ところが、1957(昭和32)年・1958(昭和33)年の蚕糸不況-1954(昭和29)年から下落してきた糸価が1957(昭和32)年10月から大きく下落-と生糸の海外輸出の伸び悩みによって、生産調整が行われることになります。

1957(昭和32)年には、不況で生糸の国内消費も落ち込むのですが、この年は天候に恵まれたこともあって、戦後最高の繭生産量(11万9千トン)を記録するとともに、生糸の生産量も戦後最高に達しました。
1957(昭和32)年という年は、群馬県の養蚕業、製糸業にとって、たいへん皮肉なめぐりあわせの年になったといえます。

その後、1960年代の高度成長期に国内需要が増加-シルクブームの再来-して、生糸価格が上昇するのですが、これは長続きしませんでした。

それは、日本人の「着物ばなれ」です。

私が子どものころはといえば、入学式などの行事のとき、小学校に来られる母親の全員が和服姿でした。
ところが、中学校に入るころには、洋服姿の母親が多くなり、和服姿の母親が少なくなっていました。

ちょうど1960年代の高度成長期、「着物ばなれ」といった時期に小学生、中学生であった私は、このころの急激な変化をよく覚えています。

その後の養蚕業、製糸業の衰退については、ご存知のとおりです。
敗戦後における養蚕業と製糸業の活況は、まことに一時的なものであり、儚い、いっときの夢のような時代であった、ともいえます。

上毛かるたの「繭と生糸は日本一」を見るたび、江戸時代の後期から明治、大正、昭和と続く時代、一生懸命にお蚕を飼って、繭を出荷していた養蚕農家、その繭を買い集める糸繭商の方々、製糸工場で必死に糸をとっていた工女の方々の姿を思い浮かべます。

いまの私たちの暮らしは、こうした方々の努力によって、もたらされているといっても過言ではありません。

小さな昆虫-カイコガ-が吐き出す細い糸によって、わが国の近代は成り立っていたのですから。

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