2014年5月27日火曜日

富岡製糸場と絹産業遺産群-荒船風穴

荒船風穴友の会設立総会

2014.5.26(月)の午後、下仁田町文化ホールにおいて、荒船風穴友の会の設立総会が開催されました。
会員登録は、457名とのことでしたが、およそ80名ほどが出席しての設立総会でした。
下仁田町長 金井康行氏のあいさつです。
第1号議案の規約(案)の承認後、役員の選任があり、事務局案のとおり承認されました。
役員に選ばれた皆さんです。

設立総会後、富岡製糸場世界遺産伝道師協会長 近藤功さんの講演がありました。
近藤さんは、世界遺産とは、どういうものかに始まり、これまでの運動の経過、今後の荒船風穴友の会における活動への助言などを話されました。

私は、世界遺産登録によって、富岡市民や下仁田町民が受ける影響-マイナスばかりでなくプラスもあるはずですが、総じてマイナスになると予測しています-をたいへん心配しているのですが、
文化財保護などの純粋な視点で、富岡製糸場と絹産業遺産群は、すごいものだ、
と熱く語ることができる方を、とてもうらやましいなと思いながら拝聴していました。

私の心配が杞憂なのかどうか・・・

  数年後には、
   富岡市・下仁田町に世界遺産登録がもたらしたものが、
     いったいなんだったのか、がよくわかると思います。

来月の下旬には、世界遺産登録が決定する見込みとか、世界遺産に登録されたことによって、富岡市・下仁田町が、すばらしいまちづくりに向かい、市民・町民の誰もが「世界遺産に登録されて、ほんとうによかったね」と喜んでいる時代がくることを、いま心から祈っているところです。

  願わくは、私の心配が杞憂に終わりますように・・・

【富岡製糸場と絹産業遺産群に関する私のブログ記事】

世界遺産候補 まちづくりって、どうすればよいの?
世界遺産候補 世界遺産に登録されると、どんな効果があるの?
世界遺産候補 絹産業遺産群とは・・・
世界遺産候補 世界遺産登録は、地域を活性化させるか
世界遺産候補 とても気になっていること
世界遺産候補-上毛新聞 富岡製糸場と絹産業遺産群
富岡市役所-新庁舎建設計画  いま、このタイミングで・・・?
世界遺産候補-富岡製糸場  腰を下ろして休める場所を増やしていただけないでしょうか。
世界遺産候補 富岡・おもてなし五カ条
http://geogunma.blogspot.jp/2014/02/blog-post_4.html
新駅完成式&新車両出発式
http://geogunma.blogspot.jp/2014/02/blog-post_5.html
文化財の維持保存には、お金がかかる!!!
http://geogunma.blogspot.jp/2014/02/blog-post_6.html
世界遺産のことをよく知るために

http://geogunma.blogspot.jp/2014/02/blog-post_7.html
高崎市・富岡市の対応

http://geogunma.blogspot.jp/2014/02/blog-post_8.html
岡谷を含めなかったのは、なぜ??

2014年5月26日月曜日

地質図

地質図には、こんな情報も・・・

いま、下仁田町自然史館において、荒船山を中心とした地域の地形模型づくり-地質の違いによる色塗り作業-が行われていますが、色塗りのおおもとになっているのが地質図(↓)です。

地形模型の色塗りについては、こちら(↓)をごらんください。

http://geogunma.blogspot.jp/2014/05/blog-post_17.html
上毛新聞の取材がありました

http://geogunma.blogspot.jp/2014/05/blog-post_24.html
上毛新聞の記事を読みました!

その地質図ですが・・・・
下仁田のある場所に、赤い星印がついています。
この赤い星印、実は・・・
→の先にあるとおり、石油露頭のことなのですが、下仁田町に石油の露頭があること、ご存知だったでしょうか。

この地質図は、1969(昭和44)年につくられました。

私が中学生のとき、
 富岡で、石油資源を見つけている
といったうわさを聞いたことがありました。

おそらく、地質図をつくるための実地踏査等をご覧になった方が、
 なにかを探している。石油資源ではないか・・・
といったことを口にされ、それが広まったのかもしれませんが、中学生であった私は、このうわさにとても興味をもったことを覚えています。

また、こうして地質図に石油露頭が表示されていることから考えるとき、私が中学生のときに聞いたうわさが、まんざらでたらめなうわさ話でなかった(富岡でなく下仁田でしたが・・・)、ということがいえるかもしれません。

地質図は、下仁田町自然史館に展示してありますし、図書館等で閲覧することができます。
化石産地の情報をはじめ、どのような岩相なのかといったことが、地質図を見ますと一目りょう然です。

ときには地質図を見ながら、ジオパーク下仁田の山々などを散策してみることも、たいへん楽しいことではないかと思います。
この山や畑などの地下がどのようになっているのか・・・
地質図をご覧になりますと、見慣れた美しい風景が違ったものに見えてくるかもしれません。

さまざまな情報に満ちた地質図をご覧になって、下仁田の山や川、大地がどのようにつくられてきたか、そんなことを想像してみるのも楽しいと思います。

また、あなたしか気づかない情報も地質図に秘められているかもしれません。
どうぞ、地質図をご覧になって、もっとおもしろいジオパーク下仁田を味わってみませんか。

ジオパークの町・下仁田に
お出かけください。

2014年5月25日日曜日

化石探し

カルカロドン・メガロドンは
い ず こ に ・・・ ?

カルカロドン・メガロドンの化石です。
先日の地学講座の折、講師の森平利政先生がお持ちになったもので、森平先生が鏑川流域の〇〇地内で採集した化石です。
カルカロドン・メガロドンは、深海サメの1種で、水深が200m以上も深い海の中にいるもので、なかなか見つけることができない化石といわれています。

※地学講座のようすは、こちら(↓)をご覧ください。
http://geogunma.blogspot.jp/2014/05/blog-post_18.html
「鏑川流域で産出する化石について」 (2014年度第2回)

すばらしい化石を拝見し、化石探し魂に火がついたといいますか、「よし!見つけてやるぞ!!!」といった気持ちになり、先日の午後、いつもの場所に出向いてみました。

下の画像は、以前にサメの歯の化石を見つけたときのものです。
いまは、下仁田町自然史館に展示していただいています。

私が化石探しに出向く場所は、崩れ落ちた崖のところどころに、貝の化石が見えています。
こんな感じ(↓)で、ヤスリツノガイの化石もみえています。
ホタテの仲間(↓)でしょうか、クリノメーターのスケールからおわかりのように、たいへん小さな化石もあります。
きれいな二枚貝の化石(↓)です。
こちらも二枚貝の化石(↓)
岩を割った直後は、化石がみずみずしいといいますか、あざやかな色をしているのですが、数時間もしますと、白っぽく色が変わってしまいます。
およそ1600万年前の海で暮らしていた貝たち、といったことを考えるとき、化石探しは、およそ1600万年間、岩のなかに閉じ込められていた貝たちに会う、そんな感じといってよいかもしれません。
これ(↑)は、ヤスリツノガイの先端、細い部分です。
どういうわけか、ここの化石産地では、ヤスリツノガイの細い部分に欠損箇所がなく、すべてがそろった状態で見つかることは少ないため、これは貴重な化石(私にとってだけかもしれませんが)です。

この日は、カルカロドン・メガロドンの化石はもちろんのこと、これまでに見つけたサメの歯の化石も見つけることができませんでした。

でも・・・、
  昔、このあたりが海だったとき、どんな風景だったのだろうか、
   などと想像しながらの化石探しは、たいへん楽しいものでした。

下仁田町では、化石探検隊によるアンモナイトの化石探し(↓)が行われています。
ジオパーク下仁田-化石探検隊 アンモナイトの化石、見つけたよ!!!

ご一緒に楽しい化石探しをしてみませんか。

2014年5月23日金曜日

人口減少時代-効果的な対策は?

人口増への効果的な対策とは・・・?

昨日(2014.5.22)の上毛新聞です。
上毛新聞 2014.5.22
この記事によれば、住む地区や施工業者が地元であることをはじめ、こどもの数などいろいろな条件によっては、桐生市が最高額200万円を桐生市に転入される方に補助しようというものです。
また、「県内では8町村・・・定住促進を目的とした住宅取得費の補助制度を設けているが、全国でも200万円の高額な支援はないという」とのことです。
上毛新聞 2014.5.22
2014.5.10の上毛新聞で、桐生市が市部でも人口減少が大きいと報道されていましたが、その危機感もあって、最高額200万円の補助、といった制度をつくったのでしょう。
上毛新聞 2014.5.10
でも・・・と、私は思ってしまうのです。
といいますのは、桐生市に親が住んでいるとか、親が保有している土地に家を建てるといった縁故関係があれば、土地を購入しなくてよいとか、多少は買い物やこどもの通学に不便でも仕方ないか・・と考え、家を建てて、桐生市に転入してくるかもしれません。

しかし、こうした縁故関係が桐生市内になく、また、群馬に縁故関係がないため、群馬県内のどこでもよい(というのは、オーバーですね。やはり、通勤や生活のための範囲内ということで、ある程度の地域内で、という選択範囲になるとは思いますが)という場合、どのような場所に住みたいと考えるでしょうか。

新たに土地と住宅を購入したいと考えている働き盛りの世帯(この場合、30歳代で、夫は会社員で、妻はパート勤務、こども2人の4人家族とし、こどもは小学生と未就学児としましょう)は、どのような場所に家を建てたいと思うでしょうか。

いろいろな考えがあるかと思いますが、一般的には、
 ① 自然災害(土砂崩れや洪水など)の心配がなく、日当たりがよい場所
 ② 通勤(夫の勤務先、妻のパート勤務先)に便利な場所
 ③ 未就学児の預け先が近く(あるいは、通勤経路上)にあること
 ④ 小学校、中学校などが近くにあること
 ⑤ スーパーなどがあって、食料品、日用品等の買い物に不自由しない場所
 ⑥ そして、納得できる土地代金、住宅取得費(お買い得感)であること
などをもとにして、家を建てる場所を決めるのではないでしょうか。

すくなくても一般的には、その方にとって生活しやすい場所を優先し、そこに定住して、暮らしながら働き、子育てをする、ということになるのではないでしょうか。

私が、いま家を建てたいと考え、どこに家を建てようか考えていると仮定したとき、建築に際して補助金がいただけるというのは、とてもありがたいことですが、家を建ててからの生活、

  自分や妻の通勤、こどもの通学(就学環境)、ふだんの生活への利便性確保

を考えるため、かならずしも補助金交付が決め手にはならないと思うかもしれません。
もちろん、いろいろな条件を精査したうえで、結果として補助金を交付していただける市に転入することになるかもしれませんが、私の場合、かならずしも補助金は決め手になることもなく、呼び水にもならないのではないかと考えると思います。

むしろ、勤務や通学、生活などの利便を優先したほうが、生活していくうえで、通勤費や通学定期代などのコスト低減にもなり、最終的には、生活コストを低く抑えることになり、新築時の補助金額をいただかなくても・・・といった計算もしてしまいます。

定住促進の補助制度を設けている市町村に、私がジオパーク活動で出向いている町もありますので、こうした補助制度が無意味だと言っている、といったふうに受け取られては困るのですが、人口増への有効な対策か、効果的な方策かといえば、たいへん懐疑的であることは、これまでの状況-定住促進補助を実施している自治体の全体にいえることは、人口に社会増がなく、急激な自然減が続く状況-が物語っているように、私は感じています。

やはり、前掲の記事(2014.5.10)の南牧村企画情報課によるコメントのとおり、

 若い世代の勤め先が確保できないと

ということではないでしょうか。

私は、学校を卒業して、勤め先(農業などの自営を含む)で給料を得て、結婚し、マイホームをつくる、というのが一般的な流れであり、まずは働く場があること、これが大前提になって、若者の人生設計がつくられるのではないかと思います。

むしろ、家があることではなく、働き、収入を得る道、場所が若者らに用意されていれば、そこで得た収入で家を建てたり、住みよいまちづくりを若者らが自らの手で行うことでしょう。

いま、急激な過疎の進行によって、よく話題にあがる南牧村は、江戸時代の砥石の採掘にはじまり、明治期のこんにゃく栽培など、鉱山開発や農産物の特産地化などによって、たいへんな繁栄をしていたものでした。

http://geogunma.blogspot.jp/2014/05/blog-post_10.html
蒟蒻平八(こんにゃくへいはち)

当たり前のことですが、南牧村の人々は、座して繁栄を手中にしたわけでなく、先人の方々の知恵と熱意、努力、行動力によって、人々は豊かな生活をし、豊かな地域づくりが行われてきたのです。

くどいようですが、収入を得る場所を確保し、生活をおくることが可能な基盤を整備すれば、家を建てるための補助金を出さなくても、多くの人々が家を建てる、と私は考えています。

むかしの人々の生き方に学び、これからの時代を新しい視点で見つめ、これから先、それぞれの地域、市町村で、どのようにしたらよいか、どのような方法で、収入を得ていくかなどを一生懸命に考えていきたいものだ、と思うこのごろです。

2014年5月20日火曜日

地形模型

地形模型制作の記事が
上毛新聞に掲載されました。

先に、

    
http://geogunma.blogspot.jp/2014/05/blog-post_17.html
上毛新聞の取材がありました
  
で、上毛新聞社の取材が行われたことを紹介しましたが、きのう(2014.5.19)の紙面に記事が掲載されました。
たいへん大きく取り上げていただき、高橋武夫先生・細矢尚先生のおふたりの地形模型制作への思い、熱意がよく伝わってくる記事です。
※ 記事の全文につきましては、上毛新聞をご覧になってください。

下の写真は、上毛新聞の取材風景です。

この記事では、

 下仁田ジオパーク見どころ

  との見出しに続いて、

  荒船風穴や荒船山、神津牧場といった下仁田ジオパークの見どころがある下仁田町南野牧周辺の・・・

  と、リード部分に述べられています。

先月のイコモス勧告後、世界遺産に登録される期待が高まっている荒船風穴ですが、
 荒船風穴は、下仁田のジオパークを構成するジオサイトのひとつであること
  が、この記事によって、多くの方々に再認識していただけたのではないかと思います。

荒船風穴が世界遺産に登録されれば、下仁田町は日本ジオパーク認定に続く快挙となります。

日本ジオパークネットワーク
            
http://www.geopark.jp/

 によれば、

 2013年12月現在、日本には33地域の日本ジオパークが日本ジオパーク委員会によって認定されています。
 2009年8月中国泰安・世界ジオパークネットワーク(GGN)事務局会議において
  [洞爺湖有珠山、糸魚川、島原半島]の3地域が、
 2010年10月にギリシャ・レスヴォス島・GGN事務局会議において
  [山陰海岸]が、
 2011年9月にノルウェーのランゲスン・欧州ジオパークネットワーク会議において
  [室戸]が、
 2013年9月に韓国 済州島・アジア太平洋ジオパークネットワーク国際シンポジウムにおいて
  [隠岐]が、
 世界ジオパークに加盟認定されました。

となっていますが、世界遺産とジオパークのダブルに! という地域は、まだありません。

下仁田町の荒船風穴が、富岡製糸場と絹産業遺産群の構成資産のひとつとして、世界遺産に登録された際には、ジオパークの活動と連携し、更に活発な活動を展開していってほしいと思っています。
そして、日本ジオパークから世界ジオパークをめざし、世界ジオパークと世界遺産の町・下仁田になってほしいものです。

2014年5月10日土曜日

蒟蒻平八(こんにゃくへいはち)

地の利を活かす

昨日(2014.5.9)の上毛新聞のトップ記事は、つぎのような内容でした。
この記事には、下仁田町と南牧村について、たいへん衝撃的ともいえる推計も掲載されていました。
こういった状況になったとき、どのようになるかといいますと・・・
自治体は、税収減となって、破綻してしまうかもしれないのです。

私は、上毛新聞の「視点」
http://www.jomo-news.co.jp/ns/series/3413986536024708/opinion_detail.html
で、つぎのとおり述べさせていただきました。

 まちづくり活動がうまくいっている地域には、必ず地元に優れたリーダーと元気な若者たちがいます。
 かつて、農村部の若者たちは青年団や4Hクラブなどの団体活動の中で、地域におけるリーダーとしての心構えを学び、また、消防団活動などを通じて、地域の人々の安全な暮らしを守る大切さや重要さを肌で感じ取ってきました。 
 私は、青年団活動や4Hクラブの活動を経て、町長や町議会議員をされている方々を知っていますが、どなたもすばらしい行動力、調整力、指導力、統率力を有しています。若いときの団体活動などを通じて、このような力を培われたのではないかと思っています。 
 しかし、今は少子化で若者が少ない中、地方の多くの若者が遠くの学校に入学したり、遠くの会社に就職するため、地域における活動がさびしいものになってしまっています。いわば、各地域における伝統的なリーダー育成機能が失われてしまった時代になったといってよいでしょう。
 この根底には、地方では働く場が少なくなり、若者が残りたくても残ることができないといった事情があるのではないでしょうか。 
 地方における急激な人口減少・過疎化がこのまま推移すれば、おそらくまちづくりのリーダーはおろか、まちづくりの主役である人々すらいなくなってしまう状況に向かうことになるでしょう。
 まちづくりのリーダーらが不在にならないためには、早急に国や自治体が、若者をはじめとして、多くの人々が地方で働ける場づくりをすべきです。
 さらに、若者の地域活動を促すため、自治体は各地域における伝統的なリーダー育成機能の復活を意図して、「現代の若衆宿」のような活動拠点をつくるべきではないかと考えています。
 細かな管理規則をつくらず、個人でもグループでも、誰もが自由に使用できる場をつくり、若者たちの自由な活動を自治体が支援することによって、さまざまなリーダー、多様な活動が生まれてくるのではないかと思っています。 
 若者をはじめ多くの人々が、地方で安心して暮らせる環境づくりとしての就労の場の確保に加えて、若者たちが集まり、刺激し合う場をつくることこそ、今の時代に求められている国や自治体の大きな役割のひとつであると思います。
 この役割を国や自治体が十分に果たせないとき、将来のリーダーらが地方のまちで育つこともなく、これからますます活力がない地方になっていくのではないでしょうか。 


上毛新聞の「視点」に掲載していただいた文章を書いていたとき、かつて南牧村(当時の月形村)で、〝蒟蒻平八(こんにゃくへいはち)〟と呼ばれていた人物がいた、ということを「北甘楽郡史」で読んだことを思い出しました。

いま、下仁田町は、甘楽郡下仁田町となっていますが、その前は、北甘楽郡という郡に含まれていました。(昭和初めの〝下仁田町〟→小坂村・西牧村・青倉村・下仁田町・馬山村の14村)
この北甘楽郡の歴史などを調べて、1929(昭和4)年に「北甘楽郡史」という本を発行(1928(昭和3)年発行・1971(昭和46)年復刻)された方がいました。
その方は、ほんかめぞうといい北甘楽郡黒岩村大字上黒岩(現在の富岡市上黒岩)のひとで、北甘楽郡立高女(いまの群馬県立富岡東高等学校)の教頭などをされ、退職後、北甘楽郡内の歴史などを実際に踏査して調べ、すばらしい郷土史である「北甘楽郡史」をつくられました。
(本多亀三→1867(慶応3)年~1930(昭和5)年。群馬師範学校を卒業後、教師になり1925(大正14)年に退職。「北甘楽郡史」発行の2年後に死去。64歳)
いまでも、この地方の歴史などを調べる際には、まず「北甘楽郡史(以下「郡史」といいます)」をひもといてから、といわれるもので、「郡史」は、まさに当地の歴史などに関する基本文献といってよいものです。

第八節 蒟蒻栽培 
     (「郡史(198199)」 ①~⑤→私が第八節を区分したもので、原文にはありません)

① 今より凡そ四百餘年前大日向村の茂木平兵衛といふ人の祖先、和惣兵衛尉正峯といへる人、或る時西国を巡遊して紀州に至りける時、或る村落にて、蒟蒻の良品を見、その數塊を請ひ得てかへり、之を畑地に植付けたり。是れ永正二年乙丑(紀元二一六五)の春にして、後柏原帝の御代なり。それより同地方に傳わり、各家皆之を菜箸するに至りたれども、元より自家の食料とするのみなりき

② 然るに、明治二十二三年頃より、俄かにこの物の價昂騰し、蒟蒻三駄は、米二駄に相當すといふ珍しき價格出でたり。時に、月形村大字大日向に茂木平八という老農あり蒟蒻栽培の利あることを家ごとに説き、人ごとに諭し、敢へて餘事を語らざりし故、人之を綽號して蒟蒻平八といひき

③ この平八氏、幼名を甲斐助といひ、天保八年正月十五日、月形村大字大日向に生る。性謹直にして剛毅、尤も事の利害を察知する明ありき。されば、茶の栽培を諸人に勸め、秋蠶の飼育を唱導し、以つて村の利潤を計りしなり。

④ その蒟蒻を作り始めたるは、明治二十六年にして、先づ初年には僅かに三畝歩の地を之に充て、それより穫たる蒟蒻を種として貯藏し、翌年春に至り、地積を二倍にして之を植付け、秋期に至りて之を掘採り、貯へて第三年の種薯とし、斯くして五ヶ年の後に至りて計算せしに、蒟蒻百二十駄(生玉十六貫二俵を一駄とす)を實収したり。ここに於いて、同地方の人々も、大いにその利あるを知り、南西牧は勿論、本邦到る所競うて之を栽培し、以つて今日の盛況を呈するに至れるなり

⑤ 翁、性慈善を好み、或は落魄せる舊友を見ては之を慰藉し、或は公共のために金品を寄附し、或は村民に率先して貯蓄會を設くる等、その美舉頗る多し。されば明治四十一年七月北甘楽郡農會より、同年十二月大日本農會より、何れも表彰せられたり。(甘楽産業叢談)      

大日向村→現在の南牧村大字大日向 
永正2年→1505
紀元→戦前に使われていた日本独自の年号 
明治2223年→18891890
月形村→現在の南牧村大字月形
綽號しゃくごう→他人がつけた呼び名の意味
天保8年→1837 
明治26年→1893 
明治41年→1908

上毛新聞の記事中に、南牧村企画情報課のコメントが掲載されていますが、いまの私たちが蒟蒻平八氏の活躍に学ぶとすれば、地の利を活かして、なんらかの産業を興すとか、儲け口を自ら見い出す、といったことが必要なのではないかと思うのです。

蒟蒻平八氏は、南牧村がこんにゃく栽培の適地であること、こんにゃくが儲かる作物であることを見通して、多くの村人にこんにゃく栽培の有利さを説きました。

もし、明治期の南牧村(当時の大日向村)に蒟蒻平八氏がいなかったとしたら・・・今日に至るまで、南牧村や下仁田町が、こんにゃくの栽培、こんにゃくの精粉工場などによって、豊かな繁栄を築くことができたかどうか・・・。

私は、上毛新聞の「視点」で、国や自治体の役割を強調しましたが、やはり住民のやる気とアイデアがなによりも必要なことであろうと思っています。

そして、これからの地域づくり、これからのまちづくりのひとつの切り口として、ジオパークを活用したらどうだろうかとも考えています。

およそ1世紀の間、私たちは蒟蒻平八氏の恩恵によって、暮らしてきたともいえるわけですが、これからの時代におけるひとつの〝いわゆる儲け口〟として、ジオパークの力、その活用を考えてみたらいかがでしょうか。

2014年5月4日日曜日

上信電鉄-デキ

ことしもファンタジー号走る!!!

2014.5.4(日)、上信電鉄のデキファンお待ちかねのデキ・ファンタジー号が走りました。
各地から集まったデキファンにまじって、松原典孝さん(山陰海岸ジオパーク)の姿も・・・
午前11時すぎ、撮影ポイントのところをデキが通過して行きました。
「いい写真が撮れたよ」と松原さんが関谷友彦さん(下仁田ジオパーク)に画像を見せているところです。
午前の撮影を終えたあと、はねこし峡を見学。
下仁田町の「エイト」で、昼食をいただきました。
下仁田名物「下仁田かつ丼」
ジオパークをテーマにした「ジオ丼」

おいしいお昼ご飯を食べ、下仁田のまちなか散策後、午後の撮影地点、下仁田駅へ。
下仁田のゆるキャラ〝にゃくっち〟が、乗客の皆さんにお別れをしているところです。
にゃくっちに関する情報  ↓
http://www.shimonita-geopark.jp/character/index.html

きょうのデキ・ファンタジー号を動画にまとめました。

安全・快適な上信電鉄で、
ジオパークの町・下仁田へ
お出かけください。

2014年5月3日土曜日

お蚕(こ)様

懐かしい思い出

きょうは、藤岡の道の駅に神輿の見学に出向いたのですが、その会場で、お蚕(こ)様に出会いました。

養蚕農家では、蚕が大切なものであるため、お蚕とおをつけたり、お蚕(こ)様と、おのほかに様もつけていました。
この時期には、桑の葉がないということで、人工飼料が与えられています。
緑色のかたまりが人工飼料です。
 ※黒いものは、お蚕(こ)様のうんちです。

養蚕農家に育った私は、桑くれ(お蚕(こ)様に桑の葉を与えること)をはじめ、上簇、繭かき(まぶしから繭を取り出すこと)などの手伝いをさせられました。

いちばんつらかった手伝いは、こくそ片付け(お蚕(こ)様のうんちを片付けること)でした。

お蚕の飼育舎のほか、居宅の部屋でもお蚕を飼育するため、私がこどものときは、お蚕と同居している、そんな感じの生活でした。

お蚕(こ)様を動画にまとめてみました。
昭和の時代、養蚕農家で育ったこどもにとっては、たいへん懐かしいものではないかと思います。

きょうの目的は、藤岡の諏訪神社のお神輿を紹介しようと思っていたのですが、お神輿が展示してある会場で、お蚕(こ)様に会ってしまったため、お蚕(こ)様の紹介が先になってしまいました。
このお神輿ですが、お蚕(こ)様-生糸-があって、諏訪神社にあることを考えますと、お蚕(こ)様というのは、たいへんな働きをしたといえるでしょう。
お蚕(こ)様とお神輿は、藤岡の道の駅・ららん藤岡で見ることができます。