2014年5月10日土曜日

蒟蒻平八(こんにゃくへいはち)

地の利を活かす

昨日(2014.5.9)の上毛新聞のトップ記事は、つぎのような内容でした。
この記事には、下仁田町と南牧村について、たいへん衝撃的ともいえる推計も掲載されていました。
こういった状況になったとき、どのようになるかといいますと・・・
自治体は、税収減となって、破綻してしまうかもしれないのです。

私は、上毛新聞の「視点」
http://www.jomo-news.co.jp/ns/series/3413986536024708/opinion_detail.html
で、つぎのとおり述べさせていただきました。

 まちづくり活動がうまくいっている地域には、必ず地元に優れたリーダーと元気な若者たちがいます。
 かつて、農村部の若者たちは青年団や4Hクラブなどの団体活動の中で、地域におけるリーダーとしての心構えを学び、また、消防団活動などを通じて、地域の人々の安全な暮らしを守る大切さや重要さを肌で感じ取ってきました。 
 私は、青年団活動や4Hクラブの活動を経て、町長や町議会議員をされている方々を知っていますが、どなたもすばらしい行動力、調整力、指導力、統率力を有しています。若いときの団体活動などを通じて、このような力を培われたのではないかと思っています。 
 しかし、今は少子化で若者が少ない中、地方の多くの若者が遠くの学校に入学したり、遠くの会社に就職するため、地域における活動がさびしいものになってしまっています。いわば、各地域における伝統的なリーダー育成機能が失われてしまった時代になったといってよいでしょう。
 この根底には、地方では働く場が少なくなり、若者が残りたくても残ることができないといった事情があるのではないでしょうか。 
 地方における急激な人口減少・過疎化がこのまま推移すれば、おそらくまちづくりのリーダーはおろか、まちづくりの主役である人々すらいなくなってしまう状況に向かうことになるでしょう。
 まちづくりのリーダーらが不在にならないためには、早急に国や自治体が、若者をはじめとして、多くの人々が地方で働ける場づくりをすべきです。
 さらに、若者の地域活動を促すため、自治体は各地域における伝統的なリーダー育成機能の復活を意図して、「現代の若衆宿」のような活動拠点をつくるべきではないかと考えています。
 細かな管理規則をつくらず、個人でもグループでも、誰もが自由に使用できる場をつくり、若者たちの自由な活動を自治体が支援することによって、さまざまなリーダー、多様な活動が生まれてくるのではないかと思っています。 
 若者をはじめ多くの人々が、地方で安心して暮らせる環境づくりとしての就労の場の確保に加えて、若者たちが集まり、刺激し合う場をつくることこそ、今の時代に求められている国や自治体の大きな役割のひとつであると思います。
 この役割を国や自治体が十分に果たせないとき、将来のリーダーらが地方のまちで育つこともなく、これからますます活力がない地方になっていくのではないでしょうか。 


上毛新聞の「視点」に掲載していただいた文章を書いていたとき、かつて南牧村(当時の月形村)で、〝蒟蒻平八(こんにゃくへいはち)〟と呼ばれていた人物がいた、ということを「北甘楽郡史」で読んだことを思い出しました。

いま、下仁田町は、甘楽郡下仁田町となっていますが、その前は、北甘楽郡という郡に含まれていました。(昭和初めの〝下仁田町〟→小坂村・西牧村・青倉村・下仁田町・馬山村の14村)
この北甘楽郡の歴史などを調べて、1929(昭和4)年に「北甘楽郡史」という本を発行(1928(昭和3)年発行・1971(昭和46)年復刻)された方がいました。
その方は、ほんかめぞうといい北甘楽郡黒岩村大字上黒岩(現在の富岡市上黒岩)のひとで、北甘楽郡立高女(いまの群馬県立富岡東高等学校)の教頭などをされ、退職後、北甘楽郡内の歴史などを実際に踏査して調べ、すばらしい郷土史である「北甘楽郡史」をつくられました。
(本多亀三→1867(慶応3)年~1930(昭和5)年。群馬師範学校を卒業後、教師になり1925(大正14)年に退職。「北甘楽郡史」発行の2年後に死去。64歳)
いまでも、この地方の歴史などを調べる際には、まず「北甘楽郡史(以下「郡史」といいます)」をひもといてから、といわれるもので、「郡史」は、まさに当地の歴史などに関する基本文献といってよいものです。

第八節 蒟蒻栽培 
     (「郡史(198199)」 ①~⑤→私が第八節を区分したもので、原文にはありません)

① 今より凡そ四百餘年前大日向村の茂木平兵衛といふ人の祖先、和惣兵衛尉正峯といへる人、或る時西国を巡遊して紀州に至りける時、或る村落にて、蒟蒻の良品を見、その數塊を請ひ得てかへり、之を畑地に植付けたり。是れ永正二年乙丑(紀元二一六五)の春にして、後柏原帝の御代なり。それより同地方に傳わり、各家皆之を菜箸するに至りたれども、元より自家の食料とするのみなりき

② 然るに、明治二十二三年頃より、俄かにこの物の價昂騰し、蒟蒻三駄は、米二駄に相當すといふ珍しき價格出でたり。時に、月形村大字大日向に茂木平八という老農あり蒟蒻栽培の利あることを家ごとに説き、人ごとに諭し、敢へて餘事を語らざりし故、人之を綽號して蒟蒻平八といひき

③ この平八氏、幼名を甲斐助といひ、天保八年正月十五日、月形村大字大日向に生る。性謹直にして剛毅、尤も事の利害を察知する明ありき。されば、茶の栽培を諸人に勸め、秋蠶の飼育を唱導し、以つて村の利潤を計りしなり。

④ その蒟蒻を作り始めたるは、明治二十六年にして、先づ初年には僅かに三畝歩の地を之に充て、それより穫たる蒟蒻を種として貯藏し、翌年春に至り、地積を二倍にして之を植付け、秋期に至りて之を掘採り、貯へて第三年の種薯とし、斯くして五ヶ年の後に至りて計算せしに、蒟蒻百二十駄(生玉十六貫二俵を一駄とす)を實収したり。ここに於いて、同地方の人々も、大いにその利あるを知り、南西牧は勿論、本邦到る所競うて之を栽培し、以つて今日の盛況を呈するに至れるなり

⑤ 翁、性慈善を好み、或は落魄せる舊友を見ては之を慰藉し、或は公共のために金品を寄附し、或は村民に率先して貯蓄會を設くる等、その美舉頗る多し。されば明治四十一年七月北甘楽郡農會より、同年十二月大日本農會より、何れも表彰せられたり。(甘楽産業叢談)      

大日向村→現在の南牧村大字大日向 
永正2年→1505
紀元→戦前に使われていた日本独自の年号 
明治2223年→18891890
月形村→現在の南牧村大字月形
綽號しゃくごう→他人がつけた呼び名の意味
天保8年→1837 
明治26年→1893 
明治41年→1908

上毛新聞の記事中に、南牧村企画情報課のコメントが掲載されていますが、いまの私たちが蒟蒻平八氏の活躍に学ぶとすれば、地の利を活かして、なんらかの産業を興すとか、儲け口を自ら見い出す、といったことが必要なのではないかと思うのです。

蒟蒻平八氏は、南牧村がこんにゃく栽培の適地であること、こんにゃくが儲かる作物であることを見通して、多くの村人にこんにゃく栽培の有利さを説きました。

もし、明治期の南牧村(当時の大日向村)に蒟蒻平八氏がいなかったとしたら・・・今日に至るまで、南牧村や下仁田町が、こんにゃくの栽培、こんにゃくの精粉工場などによって、豊かな繁栄を築くことができたかどうか・・・。

私は、上毛新聞の「視点」で、国や自治体の役割を強調しましたが、やはり住民のやる気とアイデアがなによりも必要なことであろうと思っています。

そして、これからの地域づくり、これからのまちづくりのひとつの切り口として、ジオパークを活用したらどうだろうかとも考えています。

およそ1世紀の間、私たちは蒟蒻平八氏の恩恵によって、暮らしてきたともいえるわけですが、これからの時代におけるひとつの〝いわゆる儲け口〟として、ジオパークの力、その活用を考えてみたらいかがでしょうか。

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