2015年6月30日火曜日

茨城県北&下仁田-こんにゃく・中之嶽神社

いまはジオつながりですが
昔から深いつながりが・・・

日本ジオパーク下仁田のジオサイト・妙義山の中之嶽神社につきましては、今年4月の登山安全祈願祭(↓)を紹介をさせていただいてきましたが、 

妙義山 山開き祭-中之嶽神社(下仁田町) 登山安全祈願祭
http://geogunma.blogspot.jp/2015/04/blog-post_13.html

  茨城県北ジオパークとのつながり
              について、紹介させていただきます。

下仁田町が「ねぎとこんにゃく下仁田名産」といわれ、コンニャクの栽培と食品加工の一大名産地になることができたのは、精粉加工技術を確立した中島藤右衛門(茨城県大子町)をはじめ、その技術者を茨城県から南牧村に招いた篠原粂吉らの努力があったればこそなのです。
 
茨城県大子町には、蒟蒻神社という珍しい神社があり、いまでも大切に守られています。

先人への感謝 蒟蒻神社・茨城県大子町
http://geogunma.blogspot.jp/2014/12/blog-post.html

さて、中之嶽神社と茨城県北ジオパークのつながりですが、つぎの画像をご覧ください。
中之嶽神社の鳥居です。
この鳥居は、茨城県の那珂湊・平磯町・茨城町の甲子講の皆さんが奉納されたもので、この鳥居のほか灯籠や狛犬なども奉納されています。
平磯、平磯、平磯・・・と、たくさん奉納されています。
こちらは、那珂湊の皆さんから奉納されています。

いまは、茨城県北と下仁田は、日本ジオパークに認定された〝ジオつながり〟でもありますが、昔からコンニャクの精粉加工技術をはじめ、講を通じての〝つながり〟があったことは、たいへんうれしいことでありますし、これからもますます仲良くおつきあいいただければ、と思っているところです。

茨城県北ジオパーク 平磯海岸・五浦海岸・袋田の滝ジオサイト
http://geogunma.blogspot.jp/2014_11_01_archive.html

今秋には、日本ジオパーク下仁田応援団の研修旅行として、茨城県北ジオパーク(袋田の滝ほか)を訪問したいとのことで、研修担当の森川惠美子委員が計画を立てているところです。

応援団の皆さんには、下仁田町の広報紙を通じて、研修旅行のご案内をのちほどさせていただくことにしていますので、どうぞよろしくお願いいたします。

さて、今年の夏、どこかの山に登ろうかとお考えの皆さんにおすすめするのが、妙義山の石門めぐりコースです。

このブログ記事(↓)でお伝えしましたとおり、中之嶽山岳会の皆さんによって、とても歩きやすく、また第一石門がよく見えるようになりましたので、今年の夏の石門めぐりコースは、とくにすばらしいのではないかと思います。

第一石門がよく見えます-2015.6.28() 妙義山石門周辺登山道環境整備 (主催:中之嶽山岳会)
http://geogunma.blogspot.jp/2015_06_01_archive.html

石門めぐりのあとは、中之嶽神社内にあります中之嶽ドライブインにお立ち寄りください。
中之嶽ドライブインは、参道のおみやげもの屋さんといった雰囲気で、神社の風景にとけこんでいます。
店内には、ペナントもあります。
年齢がバレバレですが、私が高校生ぐらいのときは、山とか観光地には、かならずと言ってよいほど、どこでもペナントが売られていたものでした。
そのころは山に登った記念として、ペナントとバッチを購入していましたので、私が過ごした小さな部屋の壁、天井は、ペナントだらけとなって、挙句の果てには、重ね張りをするほどまでに増えてしまいました。
バッチは、登山用の帽子につけていたのですが、これも数が増えすぎて、頭にバッチを乗せているような、そんな感じになってきたところで、バッチの収集をやめたのですが、これも私にとっては、若いときの楽しい想い出のひとつとなっています。

中之嶽ドライブイン(ドライブインという名前もいいと思います)では、ペナントのほかバッチも販売しています。

中之嶽神社内の中之嶽ドライブインには、昭和のある時代の懐かしさを感じるものがあります。

私としては、「お酒は黄桜」のポスターを額に入れて、壁にかけているのがすばらしいと思っています。
ある年齢から上の方々は、このポスターをご覧になって、
 おっ、懐かしい!!
と思われるかもしれません。

この方が黄桜の宣伝をされているころは、酒(日本酒という意味でなく、酒類全般をさす)をのんでいなかったのですが、
   こんなきれいな方にお酌していただけて、お酒(この場合は日本酒で、もちろん黄桜です)が
  のめたら幸せだろうな・・・
と、まだ酒がのめないころに夢想していたものでした。

ペナント、バッチ、「お酒は黄桜」のポスター、etc・・・

中之嶽ドライブインは、シニア層にとっては、ワンダーランドといえるかもしれません。

日本ジオパークの町・下仁田の
中之嶽神社、石門めぐり、中之嶽ドライブインに
お出かけください。

2015年6月28日日曜日

ハスの葉から気泡が・・・-古代ハス-石坪の池(富岡市神成(かんなり))

かわいい音が聴こえます
動画でお聴きください

先に、このブログ記事(↓)で、石坪の池の古代ハスを紹介させていただいていますが、ますます美しく咲いています。

大賀蓮(古代ハス) 石坪の池-富岡市神成(かんなり)
http://geogunma.blogspot.jp/2015/06/blog-post_18.html

下の画像は、2015.6.27(土)に撮影しました。
美しいハスの花の写真を撮っていたところ、泡がはじける音が・・・。
この動画で、気泡の音をお楽しみください。
ハスの葉の気泡(どうして気泡が出るかなど)については、
ネットなどで調べてください。

これまでに何度もハスの花を見てきましたが、とてもかわいい音を初めて聴きました。
ところで、ハスの花が咲くとき、ポンという音がするとお聞きになったことがありませんか。
先日、ある方とハスの花の話をしていたとき、ハスの花が咲くときの音の話題になったのですが、これについては、きちんと調べた方がいて、音がしない、という結論になったとのこと。

検索エンジンで、ハスの葉 気泡 とか ハスの花 音 で検索しますと、いろいろとおもしろいものが見つかると思いますので、検索してみてください。
撮影:2015.6.27(土)
石坪の池を管理されている方によりますと、
  「来月の中旬ころまで、花が楽しめるのではないでしょうか」
とのです。
撮影:2015.6.27(土)
どうぞ、地元の皆さんが丹精をこめて、きれいなハスの花を咲かせている石坪の池にお出かけください。

いま、日本ジオパークの町・下仁田町では、馬山丘陵のあじさい園がきれいです。

石坪の池のハスの花・馬山丘陵のアジサイの花は、
上信電鉄の南蛇井駅下車の散策コースとして、
ちょうどよい距離にあるといえるかもしれません。

どうぞ、ハスの花とアジサイの花を見に、
お出かけください!!

2015年6月27日土曜日

段取り八分・仕事二分

           このごろ思うこと
  『年を取ったということなのかな・・・』

若いとき、仕事ができる上司に出会ったのですが、その上司の口ぐせが「段取り八分・仕事二分」でした。

「段取り八分・仕事二分」が口癖の上司に出会ったとき、この上司が父と同じ考えであることを知って、たいへん親近感をもったものでした。

いまの若い方々には、段取りといってもぴんとこないかもしれませんが、ある作業などのための準備、計画段階のこと、といった意味になると思っていただければよいかと思います。
 ※ 「段取り八分・仕事二分」の意味などに興味がある方は、
ネットで検索しますといろいろヒットしますので、
それらをご覧になってください。

私の父は、「仕事は段取り八分だ」といい、農作業等の計画(年間計画から月間計画、週間計画・・)を立てて、日々の農作業をこなしていました。

父の日々の行動ですが、農作業を終えて帰宅しますと、汚れた農機具類を洗ったり、傷んだところがあれば補修して、鎌などの刃物類を研いで、それらを所定の位置に収納してから、翌日の作業に必要な道具類の準備をしました。
翌日の農作業に必要な道具類を積み込んだり、エンジン付きの農機具は、それらを始動させて、異常がないかどうか、燃料は入っているかどうか・・・を確認して、これらの確認、積み込みを終えてから風呂に入って、夕食、就寝という生活をしていました。

私が子どものとき、わが家の畑の近くで耕作しているお宅では、畑に来て「エンジンがかからない」といったトラブルを時々おこしては、その日の農作業がうまくいかないといったことがあったのですが、そのとき父は、
 「〇〇ちゃんは、機械を使えば使いっぱなし。
  畑に持ってくるとき、点検もしないんだから、
   あれじゃエンジンがかかりっこないや。
     まったく段取りがわるいや、〇〇ちゃんは」
とぼそぼそ言いながら自分の工具箱を持って、〇〇ちゃん宅の機械の面倒を見に行ったものでした。

ときに、この〇〇ちゃん宅の機械が不調であったおかげで、わが家の農作業の段取りがうまくいかず、予定より遅くまで作業をすることになり、畑での作業を終えて帰宅したときは、真っ暗になっていた、ということもありました。

いま、考えてみますと、〇〇ちゃんは、ご自分がどのように思っていたかは知る由もありませんが、自分が困っていれば誰かが助けてくれるという〝甘え〟があって、家を出る前に機械類がうまく作動するかどうかの確認をしてこなかったのではないかと・・・。

さて、私が出会った上司に話しを戻します。
この上司に教えていただいたのは、会議資料をはじめ説明資料などの資料づくり、起案の作成といったもののほか、これらをいつ、どのように準備し、送付(あるいは持参)、配布、提出すればよいか、事業等を円滑に進めるためのタイミング-いわば間(ま)のとり方-をとらえることの大切さでした。

たとえば、審議会等の会議を開催するとき、審議内容に沿った資料づくりをするのですが、
 資料を当日配布用と事前配布用にするのか、 
 会議当日に配布する資料は、どれにするのか、
 会議開催前に送付(あるいは持参)して、審議会の委員に目を通しておいてもらうべきか、 
 審議の方向性について、事前に委員から意向を聴いておいたほうがよいか・・・、
など、さまざまなことを検討して、そのなかから最適と思われるものを選択し、会議を実り多いものにしていく努力をはらってきたものでした。

そして、こういった段取りがうまくできて、成果のある会議が開催できたときは、上司から
 「うまく段取りができた。円滑な会議運営ができ、いい審議をしていただけた。よくやった」
とほめていただけるのですが、議事に入ってから

 A委員: この資料を前もって送ってよこさず、それで審議しろというのは、どういう料簡だ!だめじゃないか!!
 B委員: きちんと審議してほしいというのであれば、あらかじめ部会での討議内容を細かく整理して、それを審議会を開く前によこしてくれ
   なければ、なにも話ができないじゃないか。
 C委員: 逆に言えば、B委員がおっしゃった「なにも話ができない」ではなく、なんでも議論できてしまうことになる。それでは議論が四方八
   方に広がり、収拾がつかないことになるのではないか。
 D委員: 議論の方向性をはっきりさせておく意味で、部会での討議内容をふまえたほうがよい。
ほかの委員: そうだ!そうだ!!

といったことにでもなれば、会議そのものがめちゃめちゃになりますし、
 「お前の段取りが悪いからだ!!」
と上司からきついお目玉をくらうことになります。

これまでの私の経験では、
 会議資料の準備-事前配布を含めて-
 審議の方向性-なんでも言いたいことを言うのでなく、ある一定の枠(たとえば、審議会の下部機関である部会の討議内容)に即した審議-
 審議するための場-少人数でテーマ別に審議するのか-
などについて、きちんと段取りができたときは、会議運営が円滑なものになりました。

このごろ、なにをするにも大切なことは、
  段取り八分(80%=大部分)であり、きちんと段取りをすることだ、
と改めて実感しています。

  段取り八分+仕事二分(20%=わずかな部分)=十分(100%=全体量)
 
最近、ある会議に出席させていただいて、厳しくやさしかった上司のことを思い出したり、畑で母に叱られてしょんぼりしていた父の姿を思い出し、懐かしい気分を味わうことができました。

なぜ、父が母に叱られたかといいますと、その日の農作業に必要な道具を父が忘れて、畑に持参した道具のなかに必要な道具がなかったからですが、綿密に準備していたふうにみえて、あわてんぼうでおっちょこちょいなところがあった父は、このような失敗が何度かあったように記憶しています。

私のあわてんぼうでおっちょこちょいなところは、父親譲りかもしれないと思っています。
私の場合、段取り八分が大切だと言っていながら、準備不足で失敗することが多いのは、
父親譲りかもしれないといえば、
  亡き父が「おれのせいにするなよ」と言うかもしれませんが・・・。

これからけさも仏壇に手を合わせて、父母にあいさつをするのですが、あわてんぼうでおっちょこちょいの私が、多くの皆さんのお世話になって、今日まで生きながらえてきたことを報告し、きょうも感謝の一日をスタートさせたいと思っています。

※ 写真もなく長いブログ記事になってしまいました。
お許しください。

2015年6月24日水曜日

サイレントマジョリティ

 本音を言わないひとびと

私の経験ですが、ある公共事業に関して、地元説明会を実施したところ、地元の自治会長と班長さん以外は、どなたも口を開かないということがありました。
大きな公民館会議室をお借りして、100名ほどの方々にお集まりいただいたのですが、自治会長と班長さん以外は、一言もお話しになりませんでした。

もっとも自治会長さんの発言といっても、事業計画に関する一般的なことで、地元の方々の関心事である潰地面積や用地補償単価などではないのですが・・・

その地元説明会は、地元自治体の課長さんに進行していただき、私どもが事業内容などの説明を行ったのですが、出席していただいた方々のすべてが相談してきたかのように、ただ資料に目を落としているだけで、説明者の私どものほうをたまにちらっと見るだけ、という雰囲気で散会となったのですが・・・

いずれにしても地元説明会で質問や反対意見がなかったため、地元自治体の長をはじめ、自治会長さんらと協議したうえで、その翌年度から事業に着手することになり、事業概要案を持参して、個々に関係者宅を訪問したところ、とんでもないことになってしまいました。

Aさん(農業): 俺んちのいちばんいい畑だ。
          ここを道路にするのは、絶対いやだ。
Bさん(商店主): ここで商売をずっとしてきた。移転したくない。
Cさん(お年寄り): せがれに話したら「補償費をいっぱいもらって、
          それを俺によこせ」と言われた。
           補償してくれるからといったって、その金をせがれに取られたのでは、
          そのあとの生活ができない。
           親子関係に波風をたてないでくれ。
  ・・・etc ・・・etc

とにかく地権者、関係者からの反対ばかりとなって、結局は、その事業をストップしたことがありました。

このとき、多くの方々が、自宅の居間でおっしゃったのは、

 みんながいるところで、俺が反対だと言えるわけがない。
 だから、俺が絶対いやだ、と言っていたということは、地元のみんなには内緒にしておいてくれ。
 俺以外の者が反対だと言っているから・・、としてほしい。
 これからもここで、俺は暮らしていかなくてはならないのだから。

というような内容でした。
画像は、本文とは関係ありません。
これに類することは、いろいろなところで経験しました。

  日本人、とくに田舎の人々は、みんながいるところでは、本音を言わない

という傾向が、私はつよいように思います。

その反面、親しくなってきて、こたつに招き入れていただけるようになると、

  こちらが聞いていないのに、地域情報、裏話などをどんどん話す

ようになってきます。

そういった話題で多かったのは、集落内のだれそれが出て行った、というものでした。

たとえば、下仁田町や南牧村であれば、3軒先の〇〇ちゃんが先週出て行ったという話に続けて、

 富岡や甘楽町、高崎に出られるものであれば、いまからでも出て行きたいやね。
 早くに出て行けた人は、幸せだいね。
 いまは、じいさんが軽トラに乗れるからいいけれど、じいさんが軽トラに乗れなくなれば、町に買い物に行くこともできやしない。
 こんな山のなかにとり残されて、みじめなもんさーね。

という展開が多かったと記憶しています。
画像は、本文とは関係ありません。
ときどき住民を対象にして、自治体では住民懇談会のようなものを開催しますが、その場では本音の意見が出ないと考えるべきで、こういことをやったというパフォーマンス以外の意味はないといってよいかもしれません。

また、意向調査ということで、自治体では住民を対象にしたアンケート調査を実施しますが、これも私の経験からいいますと、真意を隠したような回答が多かったように思います。

住民の本音を聞きたいというのであれば、住民と親しくなって、その住民が話したことを集落内の人々をはじめ、誰にも口外しないという信頼を築き上げた職員が聞き取りをする以外にないかもしれません。

それでも本音が十分に聞き取れるとは思いませんが、
 あとは、その方が何を思っているか、どのようにしてほしいと考えているか・・・
   をも正しく察知する能力を身につける以外にないといってよいでしょう。

人口減に対応しようとする自治体では、住民の本音をよく把握して、適切な人口減対策を構築してほしいと思っているところです。

2015年6月19日金曜日

まちなみも時代とともに変わる

ひとびとの動きも時代とともに変わる

下の画像は、1985(昭和60)年1月15日発行の「グラフとみおか(第2号)-市制施行30年特集」に掲載されている富岡のまちなみです。
私が父母に連れられて、富岡の商店街に出かけていたころは、こんな感じのまちなみであったかもしれません。
あったかも・・・、といいますのは、まったくといってよいほど、小さいときのまちなみに対する記憶がありません。
「電気館」とか「中央」「宝映」といった映画館があったり、宮本町通りの商店街がにぎやかであったことは、その後の記憶(中学生になってから)とごちゃまぜになっているかもしれませんが、小さいときのかすかな記憶の断片として残っているように思います。
この画像は、2006.10.13に撮影したもので、正面の奥に旧片倉工業の富岡工場があります。
この年の1月、2006.1.18に片倉工業と富岡市が土地売却の調印を行い、富岡市が片倉工業から富岡工場の土地を取得することになりました。
右側は、宮本町通りになります。
このころは、とてもひっそりしていて、さびしい通りになっていました。
撮影:2014.7.13
旧片倉工業の富岡工場が、富岡製糸場として世界文化遺産に登録されたあと、さびしかった通りがにぎやかになりました。
旧片倉工業富岡工場前の通りは、多くの見学者が行き交う〝富岡製糸場のメインストリート〟に変わりました。
いまでは、多くのみやげ物店などができ、にぎやかな通りになりました。
 この画像も2006.10.13に撮影したもので、富岡駅の駅前通りです。
撮影:2015.6.15
富岡駅の駅舎が建て替えられ、駅前の整備が行われて、ご覧のように変わりました。
撮影:2006.10.13
富岡市が片倉工業の富岡工場を取得(建物は、富岡市に寄付されたとか・・・)後のようすです。
撮影:2015.6.15
旧片倉工業の富岡工場が、富岡製糸場として世界文化遺産に登録後、多くの方々でにぎわう一大観光地といった状況になりました。

やるなら徹底的に!

中途半端なことは やめたほうがよいのでは?
http://geogunma.blogspot.jp/2015/05/blog-post_30.html

まちなみの変わりよう-富岡製糸場周辺

不思議なまちなみになってきたような・・・
http://geogunma.blogspot.jp/2015/06/blog-post_16.html

これらのブログ記事(↑)で述べさせていただきましたが、これから先、来年、再来年・・・、さらには10年後・・・、
撮影:2015.6.15
旧片倉工業富岡製糸場前の通りをはじめ、宮本町通り、富岡駅の駅前通りがどのように変わっていくのでしょうか・・・。
  これから先、まちなみがどのように変化していくのでしょうか・・・。
  これから先、ひとびとの動きがどのように変化していくのでしょうか・・・。
    とても興味があります。

2015年6月18日木曜日

大賀蓮(古代ハス)

石坪の池-富岡市神成(かんなり)

地元の方々が大切に守り育ててきた大賀蓮(古代ハス)の花が咲き始めました。
撮影:2015.6.17(水)
石坪の池の大賀蓮は、2010年8月に新潟県の弁天池から分根、移植したものとのことです。
撮影:2015.6.17(水)
開いたハスの花も美しいものですが、開き始めたところも美しいものです。
撮影:2015.6.17(水)
地元の方々によって、看板、木道、駐車場も整備されています。
あまり大きくない池(というより小さい池といったほうが適切かも・・・) ですが、その池からはみ出るようにして、たくさんの花がつぎつぎと咲く姿は、とてもすばらしいものといえるでしょう。
撮影:2015.6.17(水)
私のお気に入りの1枚です。
ハスの葉の上の水滴、葉をよけて伸びようとする花芽、その近くで咲き始めている小さなつぼみ・・・、そして右上には、つぼみにとまっているトンボも。

梅雨の晴れ間に見ることができるハスの花と生きものの美しい瞬間であったと思います。

    石坪の池へのアクセス

 上信電鉄利用の場合は、南蛇井駅で下車して、歩くこと約15分ほどかと思います。
 自家用車等の場合は、カーナビにセット(→富岡市神成東石坪919番地)してお出かけください。

    参 考 情 報
 
 石坪の池は、日本一きれいなハイキングコースの山として有名な神成山の近くにあります。
 南蛇井駅から歩いて、石坪の池で大賀蓮の花を見たあと、新堀神社前の登山口から登り、神成山を縦走して、神農原駅に向かうコースもよいと思います。

 神成山を縦走するのは、体力的にちょっと・・・という方は、

 下仁田町馬山にあるあじさい園で、きれいなアジサイの花を見たあと、石坪の池に向かうのもよいかと思います。
 南蛇井駅から歩けば、あじさい園、石坪の池ともに、それほど遠くではありませんので、歩くのにちょうどよい距離ではないか・・・と思います。

大賀蓮の花、アジサイの花を見ながら
楽しく歩いてみませんか。

2015年6月17日水曜日

シーボルト事件-稲部市五郎種昌の墓-金剛院(富岡市七日市)

シーボルト・あじさい・てらよみ

稲部市五郎種昌(いなべいちごろうたねまさ)は、江戸時代の一大事件である“シーボルト事件”の関係者で、七日市藩預け-永牢-の処分を受け、七日市で亡くなった方です。

稲部市五郎が亡くなったあと、七日市藩主によって、金剛院の墓地に手厚く葬られました。

シーボルト事件については、
多くの方々がご存知だと思いますし、
ネットで調べることもできますので、
ここでは省略させていただきます。
金剛院の山門です。
山門前には、「稲部先生ノ墓」と刻まれた石碑(赤い→の先)が立てられています。
金剛院にある稲部市五郎の墓です。
稲部市五郎は、いわば犯罪者ということになるわけですが、死去後も手厚く遇されていることがよくわかります。
そして、シーボルトといえば、アジサイとの関係でも有名です。
シーボルトとアジサイの関係についても、ネットで検索しますと、たくさんヒットしますので、それらをご覧いただくとして、
 アジサイの花が咲くころになりますと、
   シーボルトがヨーロッパに持ち帰ったアジサイのことや、
  どのような気持ちで、シーボルトは日本を去ったのだろうか
 と、ふと思うときがあります。
けさは、金剛院で行われた〝てらよみ〟の第3回に参加させていただくため、朝早くに金剛院に出向いたところ、稲部市五郎のことやシーボルトとアジサイの関係などを考えていたせいか、昨夕の夕立に濡れたアジサイの花がひときわ美しく感じられました。
けさの〝てらよみ〟に参加された方々が持ち寄った本です。
私は、第2回の〝てらよみ〟から参加させていただいたのですが、早朝のひととき、金剛院の一室で静かに本を読み、参加された方々の発表を聞かせていただくのは、とても刺激的であり、たいへん楽しいものです。

シーボルト事件の関係者である稲部市五郎が眠る金剛院には、たくさんの種類のアジサイが植えられています。
私には、シーボルト・アジサイ・シーボルト事件・稲部市五郎・金剛院のアジサイ・・・、といった関係が連想され、とても興味深いものがあります。

いま、金剛院では、アジサイの花が美しく咲いています。

2015年6月16日火曜日

まちなみの変わりよう-富岡製糸場周辺

不思議なまちなみになってきたような・・・

きのう(2015.6.15(月))の午後、用事があって出かけた帰り、久しぶりに富岡のまちなかを歩いて、富岡製糸場に行ってみました。
宮本町通りには、映画撮影のセットのような「舘治明」というのができていて、これはいったいなんだろうと思って、近づいて行ってみたところ、なにか演じる場所らしいことがわかりました。
見渡したところ、演じる内容の告知がなく、木戸銭500円となっていたので、500円がもったいないこともありましたが、どのようなものかわからずに入るのもどうかと思い、なかに入りませんでした。
ある店のガラス窓に「舘治明」のポスターが貼ってあり、それを見ると、舞台で紙芝居をする場所であることがわかりました。
演者は、人生気楽さん、甘楽亭奈落さん、萩原陽子さんという方々(これらの方々がどのような方々なのか、私はまったく知りません)で、この方々が交代で演じることがあるらしいのですが、きのうの場合は、1日に2回だけであったのか、演者の札が2枚しか下がっていませんでした。
いまの時代、美しい映像(世間では、8Kとかなんとか・・・)に音響効果をつけたものが一般化していますが、「舘治明」というのがレトロな紙芝居を見せる場所であったとは、たいへん驚いてしまいました。
富岡製糸場の世界文化遺産登録前後から、 シャッターが下りたままであった店や空き家状態であった家が店舗になってきましたが、しばらくぶりに宮本町通りや製糸場前の通りを歩いてみて、ここ最近でも新規出店の店が増えているように感じました。
きのうの午後、しばらくぶりに歩いてみて、お祭りの日に焼きそばや金魚すくいの店が並ぶような感じといってよいような、そんな印象を受けました。
富岡製糸場が世界文化遺産に登録されてからおよそ1年。
製糸場周辺にできた店舗の多さ、それぞれの店舗による店づくりなどを見るとき、まとまりがないまちなみ、不思議な感じのまちなみになってきたように感じます。
上の画像は、富岡製糸場内のブリューナー館という建物ですが、片倉工業が操業していたときの室名札が下がったままであったり、電気の配線と思われるものが見えているのですが、
  このような状態で、これからも見せておくのであれば、
     旧片倉工業富岡工場としたほうがよいのではないか
  と私は思っています。
富岡製糸場という名称には、多くの方々が明治のにおいを感じると思うのですが、いまのような状態で見せるのであれば、入場された方々は肩透かしにあったように感じるのではないでしょうか。

やるなら徹底的に!中途半端なことは やめたほうがよいのでは?
http://geogunma.blogspot.jp/2015/05/blog-post_30.html

以前、このブログ記事(↑)で書かせていただきましたが、明治の創業期における旧官営富岡製糸場への復元をするとか、きちんと時代設定の方針を立て、その方針に沿って、製糸場を整備するとともに、製糸場周辺のまちなみも統一して、
 また富岡製糸場に行ってみたい。
  また富岡に行ってみたい。
と思っていただけるものにしたほうがよいと考えるのですが・・・。

2015年6月14日日曜日

探しています-田中角栄氏の写真・記録

田中角栄氏は 若いころ 中小坂鉄山で働いていた!?

中小坂鉄山がどういうものであったかについては、
下仁田町のHP(↓)でご覧ください。
http://www.town.shimonita.lg.jp/kyouiku/m02/m06/01.html

下の写真は、田中角栄氏が若いころに住んでいた家の跡と伝わっている場所です。
この家の跡は、中小坂鉄山の坑道に向かう入口付近にあります。
上の画像「中小坂鉄山跡案内図」の現在地とある左側です。
田中角栄氏については、ご存知の方々が多いと思いますので、ここで氏のことを述べることはしませんが、ネットで検索してみても氏が中小坂鉄山で働いていたという記事がヒットしません。
タクシーの運転手さんに聞いて、中小坂鉄山に出向いたという書き込みはありましたが、田中角栄氏が何歳のとき、いつからいつまで中小坂鉄山にいたのか、の具体的なことがわかりません。

田中角栄氏の経歴として、ネットで公開されているもので、たいへん詳しく書かれているもの(↓)です。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/history_jiyokiyogidai.htm

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/history_daigishimosakugidai.htm

これ(↑)には、若いころの田中角栄氏の経歴が詳細に書かれていますが、氏が中小坂鉄山にいたとは、まったく書かれていません。

現在、ご一緒に下仁田でジオパーク活動をしている方は、
 田中角栄氏は赤いフンドシ姿であった」
と、中小坂鉄山の近くに住んでいたおばさんに教えていただいたそうです。

田中角栄氏が若いころに住んでいた家の跡との伝承をはじめ、氏についての目撃情報があるのですが、記録とか写真があるのかどうか・・・?

田中角栄氏が過ごした中小坂鉄山での日々は、どのようなものであったのか・・・。
田中角栄氏が若いころに住んでいた家の跡に通じる道です。
赤い車の先を左折した先に、その家の跡があります。

田中角栄氏もこの道を歩いたであろうと思いますと、若いころの氏は、この道を歩きながら何を考えていたのだろうかと、とても興味がわいてきます。

田中角栄氏が赤いフンドシ姿で、
将来は総理大臣になるんだ!と、
この道を歩きながら考えたとしたら、
中小坂鉄山は、
鉄鉱石だけでなく、
総理大臣をも〝産出〟した稀有な鉱山
といえるのではないかと・・・。

中小坂鉄山における田中角栄氏の写真や記録を、下仁田町に貸与、寄託、寄贈していただければ、ジオサイトのひとつである中大坂鉄山の解説に際して、とてもよい話題となるのではないかと私は思っています。

下仁田町の歴史をいろどるエピソードの発掘にご協力いただければ幸いです。

2015年6月12日金曜日

すばらしい接遇-かくありたいものです!!

御岳山(みたけさん)・神社前の商店街

高尾山のケーブルカーに引き続き、御岳山のケーブルカーに乗ってきました。

 高尾山については、こちらのブログ記事をご覧ください。

 高尾山-楽しさいっぱい!  演歌界の大御所がお出迎え!
   http://geogunma.blogspot.jp/2015/06/blog-post_4.html

御岳登山鉄道の乗車駅、滝本駅です。
標高407mの滝本駅から標高831mの御岳山駅まで登るケーブルカーの
前面展望をお楽しみください。
御岳神社前の商店街です。
とても落ち着いた雰囲気があり、レトロな感じがすばらしい商店街といえます。
商店街にある店のひとつ、駒鳥売店は店内からの眺望のよさもあって、多くの参詣客でにぎわっています。

わたしがすばらしいと思ったのは、駒鳥売店の方の接遇です。
駒鳥売店の方は、おそらくわたしが見ているもの、お客さんが関心を寄せているものが何かを観察していて、客の関心の方向を察知し、その方向に沿った対応をされるのでしょう。

駒鳥売店の方: 花の写真とかに、ご興味がおありですか・・・
 わたし: えー・・・、まあ・・・
駒鳥売店の方: (小冊子(上の画像)を棚から取り出し)よろしかったら、どうぞ。
 わたし: えっ、いただけるのですか!
駒鳥売店の方: はい、どうぞ。
 わたし: ありがとうございます。
駒鳥売店の方: レンゲショウマの花が咲く時季は、また一段と御岳の山が美しくなります。
 わたし: (いただいた小冊子を眺めながら)きれいな花ですね。
駒鳥売店の方: ぜひ、レンゲショウマの花が咲くころ、またお出かけになってください。
 わたし: (うなづいて)出かけてみたいと思います。
駒鳥売店の方: お待ちしております。レンゲショウマの花の写真、きれいに撮ってください。

このときの会話を文章にしますと、だいたいこんなものなのですが、声をかけるタイミングのよさ、ことばづかいのよさがあり、けっして押し付けがましい感じがせず、とても心地よいものでした。
いろいろな観光地に出かけましたが、これほど心地よい接遇には、なかなかお目にかかりません。
御岳山へのリピーターを増やして、御岳山の観光を振興しようという取り組みであると思うのですが、それぞれの店の方々お一人おひとりが〝御岳山観光部長〟といった働きをされていることに、とても感動しました。

観光地によっては、商品を売りつけたい一心でのことだと思いますが、道路まで出てきて、歩いている客に「試食して!」と強引に、楊枝にさした食べ物を向ける店があるかと思えば、なにが気に入らないのか、ぶすっとした表情の店番がいる店もあったりして、なかなか全体的に好印象の商店街はないものですが、御岳神社の商店街には、たいへん心地よいものを感じました。
御岳登山鉄道の年間イベントをはじめとして、御岳山の商店街などが力を合わせて、御岳山へのリピーターを増やしていこうという活動は、とてもすばらしいことであると思います。

いま、世界遺産ブームにのって、多くの観光客が富岡市や下仁田町に来られていますが、富岡市や下仁田町が全市、全町をあげて、気持ちよい接遇といったことを真剣に考えて、来市、来町されるお客さまに対応しませんと、
 『富岡に行ったけれど、気分よくなかったね』
 『下仁田も感じよくなかったわね』
といったことになって、
  そうでなくても先細りになる世界遺産ブームでの観光客数を、
       さらに加速度を高めて減らす結果になるのではないかと思います。
とても気持ちよかった御岳山での一日でした。
名残惜しく御岳山駅をあとにした動画-後面展望-です。

世界遺産・ジオパークがあるまちも、
かくありたいものだと思った御岳山での一日でした。

2015年6月7日日曜日

これが地方創生の柱??-私の疑問

東京圏高齢者 地方移住を

先日(2015.6.5(金))の朝、寝ぼけ眼で上毛新聞を読んでいたとき、ばっちり眼があくようなタイトルの記事がありました。
2015.6.5(金)上毛新聞
東京圏高齢者
 地方移住を 
     医療・介護整備追いつかず
 
というタイトルを読んだとき、いったいこれは、どういうことなのか!!と驚いてしまいました。
2015.6.5(金)上毛新聞
東京圏の高齢者が増えることについては、20年も30年もあるいはその前からも、わかりきっていたことであったのではないでしょうか。

たとえば、「金の卵」ともてはやされて、地方から多くの若者が東京や京阪神などの大都市に出て行き、それらの人々をはじめ、多くの人々が暮らしてきたわけで、ここへきて急に高齢者が増えたということではないと思うのです。

30年前の時点では、30年後の年齢別人口構成がどうなるか、20年前の時点では、20年後の年齢別人口構成がどうなるかは、あらかじめ国や自治体で予測できたはずです。
そうした予測をして、30年前からとか、20年前からといった時点で、将来の姿を想定しての施策を推進してきたのでしょうか・・・。
2015.6.5(金)上毛新聞
高齢者の移住も対策の柱ということであり、東京圏の高齢者が移住することで、雇用の維持・拡大、若者の流出防止につながる、と期待する向きもあるということですが、はたしてそういうものでしょうか。
いまの高齢者問題は、戦後のベビーブームで生まれた方々の大きなかたまりあってのものであり、こういった段階がひとくぎりすれば、地方には高齢者すらいなくなるといった事態が生まれているかもしれません。

民間団体の「日本創成会議」とは、先の〝地方消滅〟にはじまって、これからの時代において、地方をきちんと考えるという視点と理解力に乏しいのではないか、と私は疑問に感じています。

また、「日本創成会議」なる民間団体の提言に基づいての官房長官の発言には、東京には働く年代の人々だけがいればよい、といったニュアンスを私は感じます。

はたして、東京圏の高齢者を地方に移住させることが、
地方創生の柱といえるのでしょうか。

2015年6月5日金曜日

武田信玄&下仁田

武田信玄がとおった下仁田

来年のNHK大河ドラマが、真田信繁(幸村)を主人公にした「真田丸」とのことで、群馬県の沼田市など、真田氏にゆかりのある自治体では、NHK大河ドラマ人気にあやかって、観光客を増やそうと努力しているようですが、はたしてうまくいくだろうか・・・、と私は思っています。

群馬県には、歴史上の人物として、大河ドラマの主人公になれるほどの大物がいなかったのか、これまでに群馬県が舞台になって、主人公らが華々しく活躍するドラマというのを私は知りません。

たとえば、武田信玄の場合、箕輪城の攻略で苦戦したことが有名ですが、これがドラマに描かれたことがあるのかどうか・・・。

日本百名城-箕輪城

  春風に うめも桜も 散り果てて 名のみぞ残る 箕輪の山里
http://geogunma.blogspot.jp/2015/03/blog-post_7.html

以前、このブログ記事(↑)で、下仁田における武田信玄のことを紹介したいと述べましたが、武田信玄が西上州に来るときは、下仁田をを必ずとおり、下仁田で騎馬隊などの調練が行われたと伝わっています。
いまは、竹林になっていて、武田信玄の騎馬隊が馬を駆って、疾駆していたようすをしのぶことができませんが、ここで訓練をして、箕輪城方面に向かって行ったことでしょう。
ここは、骨立山(こったてやま)のふもと、下仁田町の赤津地区になります。
馬山地区側から眺めた骨立山(こったてやま)です。
「武田騎馬隊 鉄砲馬場跡」は、この画像の右のほうにあります。
 (この画像には、写っていません)
 →の先が骨立山の山頂になります。
山頂からの眺めです。
この山頂から武田信玄の軍勢は、箕輪城をはじめ、支城の動きなどをここから見ていたと、地元の古老にお聞きしたことがあります。

下仁田ジオパークのジオサイトのひとつである馬山丘陵が見渡せる場所として、この山頂は最高の場所であるのですが、武田信玄の軍勢にとっては、ここの河岸段丘には目もくれず(であったと思います)に、これから攻略に向かう箕輪城をはじめ、支城の動きなどをここから見ていたことでしょう。

部下に任せっきりということでなく、山頂に腰を下ろして、箕輪城や国峰城などを眺めていた武田信玄の姿があったかもしれません。

ここまでブログ記事を書いてきて、ふと思いつきました。

西上州攻略での武田信玄がドラマで描かれないのは、箕輪城の長野業政らの奮戦によって、武田信玄があまりにも苦戦したので、それを描かないでほしいという信玄ファンの思いに応えてのことかもしれないと・・・。

これは、あくまでも箕輪城の長野業政らの奮戦、そのすばらしさに感動している私の勝手な空想ですので、信玄ファンの皆様にはお気を悪くなさらないよう、くれぐれもよろしくお願い申し上げます。

そして、冒頭に述べた「真田丸」放送による群馬県内での自治体の思惑どおりにいくかどうかですが、どうも群馬県自体が脇役にもなれないような、そんな感じがしないでもありません。
当たり前のことですが、真田信繁は当時の群馬県で、華々しく活躍したわけではありませんから・・・。
とても残念なことですけれど、これが戦国時代の群馬県の実態でしょうか・・・。