2016年1月29日金曜日

現代であれば・・・

鉄道ファン、それも撮り鉄だろうか?

先日、あるお宅で、「上野名蹟図誌」の復刻版を見せていただきました。
早速、上野名蹟図誌を古書店で購入し、この図誌に収められている図を細かく見て、たいへん驚いてしまいました。
それは、たんに社寺などの建物が描かれているだけでなく、随所に蒸気機関車(以下、タンクエンジンといいます)と客車までもが描かれていたことでした。
これは、富岡市七日市の蛇宮神社が描かれている図ですが、黄色い矢印の先には、タンクエンジンと客車が描かれています。
その部分を拡大してみましょう。
「富岡市史(近代・現代 通史編・宗教編」の151頁には、明治36年(1903)当時、上野鉄道(上信電鉄の前身)が使用していたタンクエンジンが6輌であったと記述されています。
この絵(もとの図は、銅版画だそうです)が描かれたのは、明治34年(1901)となっていますので、明治30年(1897)9月25日の高崎・下仁田間が全通直後ともいってよい時期であり、まだまだ珍しかったということもあったのでしょうが、とても精密に描写されていることから想像して、この絵を描いた作者は、相当にマニアックな方であったのではないだろうか・・・と思っています。
実は、上野名蹟図誌の図については、いろいろな図が群馬県北甘楽郡史 に引用されていて、これまでに何度となく北甘楽郡史で見ていたのですが、印刷があまり鮮明でないうえ、図が小さいこともあって、これらの図に上野鉄道時代のタンクエンジンと客車が描かれていることに気づきませんでした。
これが北甘楽郡史に掲載されている蛇宮神社の図です。
なぜ、私が絵を描いた方を相当にマニアックな方と思ったかといいますと、下の宇藝神社の図を見たとき、『この作者は、いまなら取り鉄だ!』と感じたためです。
 黄色い矢印の先がタンクエンジンと客車です。
たしかに宇藝神社前を通っていますが、線路と神社の距離を考えるとき、わざわざ描かなくてもよいのではないかと思えるほど離れています。
明治30年代には、日本中で鉄道が敷設されていく、そんな時代であり、物珍しさもあったかもしれませんが、この絵の作者は、現代であれば差し詰め撮り鉄といったところではないかと想像してしまいました。
これらの絵の作者は、描かなくても支障がないタンクエンジン、客車を隅のほうに描く(どうしても列車を絵のなかに描きたいと思い、わずかな隙間のような場所に描いてしまった)ほど、熱烈な鉄道ファン(そのはしりのような人物)であったのではないでしょうか。
下仁田町の常住寺の図では、タンクエンジンと客車はもちろんのこと下仁田停車場、それに線路までも細かく描いていて、とても見事な図になっています。
明治36年(1903)に使用していたタンクエンジン6輌のうちの1輌かどうかわわかりませんが、上野名蹟図誌に描かれていることから読み取れる情報量の多さに驚いています。

今さらではありますが、むかしの図などを見るとき、その細部までをもよく見ること、その大切さを痛感した上野名蹟図誌でした。

あすのブログでは、上野名蹟図誌の図を見ていて、もっと私が驚いたことを紹介したいと思っています。

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